読みもの

シンプルな文様に込められた切子の職人技

ガラス生地に、職人が一つひとつカットを施していく「江戸切子」。繊細できらびやかな美を形にするため、職人は、くる日もくる日も江戸切子と向き合い、その腕やセンスを研きます。 工房や職人によるスタイルがあり、作品を一目見ただけで誰が手がけたかわかる職人もいるほど。また、どれだけ経験を重ねても、それに甘んずることなく、目の前のガラス生地をいかに美しく仕上げるかを考え、手を動かす。厳しくもすばらしい、その世界。 ここでは、唯一無二の江戸切子に欠かせない“職人”を取り巻くストーリーをご紹介します。 「江戸切子」の特徴といえば、伝統文様を始めとする様々な文様のカットです。複数を組み合わせる場合が多いですが、中には一つの文様で、ストイックに表現されるものもあります。 たとえば「室町硝子工芸」で、2020年の冬から手掛けているオリジナル商品もそう。初めて江戸切子を手にする方や、日本の伝統工芸品に触れたことのない方にも手にしていただきやすいようにと、一つの伝統文様で仕上げるシンプルでモダンな意匠を目指しています。 オリジナル商品の第二弾であるロックグラスとタンブラーの「唯千(ゆいせん)」も、その一つ。デザインは、着物などの染め物に用いられる「千筋(せんすじ)」から着想を得ました。 職人は「ダイヤモンドホイール」と呼ばれる専用の機械を使用し、約3mm間隔で均一にカット。スッスッと縦に伸びるラインは、光を受けると、凛とした涼やかな光を放ちます。手がける職人曰く、この一定に淀みなくカットしていく技術こそ、もっとも難しくて美しさにつながる大事なポイントです。 「唯千」は、職人が手を動かさねば、こうは輝きません。それには二つ、大きな理由があります。 一つは、一見同じように見えるガラス生地には、形や厚みに僅かな差があります。なぜなら、江戸切子のガラス生地は、一つひとつ専門の職人が息を吹き込みつくっています。そのため、どうしても個体差が出てくるのです。個体差を活かしつつ、美しいカットを施すことも、熟練の手仕事がなせる技。江戸切子の職人は、それぞれのガラス生地に合わせて微妙な加減でカットを施し、両方の魅力が最大限に生かされた仕上がりを追求します。 もう一つは、手仕事ならではの、エッジの効いたカットです。実は、機械の場合はこうはいきません。というのも、グラスの表面に模様をつける場合、機械では「プレス加工」といい、様々な溝が刻まれた金型に水飴状の熱いガラスを流し込んで成形します。高温のガラスは粘度が非常に高いため、あまり細かな金型では溝の奥までガラスが入り込まず、どうしても丸みを帯びた角に仕上がります。「唯千」の場合、約3mmと細かく均一なシャープさを表現したいため、職人の手仕事が必須なのです。 この一定に刻まれる細かな縞模様は、少しでも手元が揺らぐと台無し。だから職人は、まるで息を殺すように、グッと集中しながら作業しています。その努力と、高い技術があってこそ「唯千」の追求する美しさは形になるのです。 手に取り、眺める時間もよろこびになるような江戸切子。そこには、静かな情熱に燃える職人の存在がありました。

はじめてのワイングラス

心をほぐしてくれる大切な一杯は、よりおいしく味わいたいもの。中でもワインは、グラスにより、味の印象が変化します。同じワインでも、違う種類のグラスで飲むと、全く違うワインに思えるほどなのだとか。ここでは、ワイングラスを手にする際に知っておきたい基本をご紹介します。

江戸切子のルーツ

日本でのはじまりと発展 職人たちの手で、一つひとつ刻み、育まれてきた「切子(Kiriko)」。そのルーツは、ヨーロッパからもたらされたカットガラスです。美しい文様の刻まれた、透明なガラスのうつわーー。その姿に人々は魅了され、国内でも製造しようと、17世紀ごろに長崎で製造がはじまったといわれています。その後、技法は京都・大坂を経て、江戸へ。 江戸で切子が本格的につくられるようになったのは、江戸時代後期の1834年ごろ。現在の、東京都中央区日本橋地域にあった、江戸大伝馬町。ビードロ屋「加賀屋」の加賀屋久兵衛(かがや・きゅうべえ)が、ガラスに切子細工を施したのがはじまりなのだとか。久兵衛は、ガラス瓶に切子を施し、来航していたペリー提督に献上。その技術のすばらしさを称賛されたというエピソードをもちます。 当時は、金属製の棒状工具などに、金剛砂(こんごうしゃ)という石を砕いた研磨剤を水でつけ、手動で削っていたそうです。また、現存する「加賀屋」の包装紙を兼ねたカタログチラシ「引札(ひきふだ)」には、銘酒瓶、脚付きコップ、文具揃などの切子が描かれています。そこからは、細かい正方形を縦横に連続させた「霰(あられ)」など、シンプルな文様が人気を集めていた様子が伺えます。これらは江戸切子の前身といえます。 加賀屋久兵衛の引札   明治時代に入ると、国も製造に乗り出しました。1873年に設立したガラス工場「品川工業社硝子製造所」(現在の東京都品川区北品川4丁目)を、1876年に官営化。「品川硝子製作所」と改名し、技師を雇い入れ、洋式のガラス製造方法の指導にあたらせます。 1879年、イギリス人技師のゼームス・スピード氏の指導で、食器製造をテスト。1881年には、同じくイギリス人技師のエマニエル・ホープトマン氏を招き、回転工具による洋式のカット技術が伝えられます。ホープトマン氏から、10数名の日本人が指導を受けたとされ、その弟子から日本の切子産業を支える職人が育っていきました。また、このころに、現在の江戸切子に通づるカット技術が確立。ガラス製うつわの普及もどんどん進みます。 大正時代に入ると、使用するガラス素材の研究や、クリスタルガラスの研磨技術を開発。江戸切子の品質は、ますます向上していきました。       庶民と切子 さらに、大正から昭和初期にかけては、工芸ガラスといえば「カットガラス」といわれるほど、急成長。技術革新や産業構造の変化にともない、切子の生産はますます拡大していきます。大正文化や昭和モダンなど、和洋折衷の市民文化が花開いた当時。アール・デコ様式のようなモダンな「色被せ(いろきせ)」ガラスの食器が人気を集め、「切子といえば高級品」。「切子といえば色被せガラス」というイメージが、庶民にも拡まっていきました。 そして時代は、戦争へーー。日本でも、戦地へ駆り出される職人が多く、衰退する産地や工房もありました。また、ガラスも軍需用品として集められ、たいへん貴重なものに。さらに飛行機の窓ガラスなどが急務で必要になったため、職人や工房の中にはそうした仕事につく人たちも。切子の生産は、一時的に縮小します。 しかしその中でも、職人の火は途絶えることなく、燃え続けました。戦後、もののない時代から一転。アメリカ軍の進駐もあり、食器やグラスなどのガラス製品の大量需要が起こったそうです。また、高度経済成長の波もあり、景気は回復。少しずつ、切子に携わる職人や工房に元気が戻ってきました。 その後、「江戸切子」は、1985年に東京都伝統工芸品に指定。平成に入り、2002年には国の伝統的工芸品に指定されました。時流に寄り添いながら、昔から変わらず、一つひとつ人の手で刻まれてきた切子。現在でも、ホープトマン氏の流れをくむ職人たちが、東京都江東区を中心に、つくり続けています。  江戸切子職人・小林菊一郎氏 昭和30年代に撮影(画像提供:小林硝子工芸所)   名称のルーツ 元をたどると、1781年に蘭学者・大槻玄沢(おおつきげんたく)の書いた『蘭説弁惑(らんせつべんわく)』に見られます。さまざまな西洋の文物を挿絵付きで解説した一冊で、「硝子諸器」に「びいる・がらす」なる図があり、添えられているのは「形猪口のことし 俗にきりこ手 金ふちなとよふものあり」という一文。また、この他にも記述があり、カットガラスを「きりこ手(様)」と称しています。 1818〜1829年ごろの発行とみられる「加賀屋」の包装紙を兼ねたカタログチラシ、引札(ひきふだ)には、図と合わせて「切子鉢」「切子皿」などと表現。これにより、「きりこ手(様)」が「切子」に変化したことがわかります。 大正初期の文献には「切子細工」と記されたものが多く、「江戸切子」という呼び名の発祥については諸説あり。言葉が一般的になったのは、戦後だそうです。一つあるとすれば、1985年の都の伝統工芸品指定。これにより、東京でつくられたカットガラスを中心に「江戸切子」と指定するようになりました。

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